第14回  ザスパ戦を語り継ごう (2004年6月10日)
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 何度も攻撃を仕掛けたMF種倉の目の色はいつもと違っていた
(6月6日・足利市総合運動公園陸上競技場)
 世界のスターだったリトバルスキー率いる横浜FC(現J2)戦でも入場者は2279人だった。第12節のザスパ草津戦には、栃木SCのJFLホームゲーム史上最多の3321人が入った。ピッチサイドにいても、拍手や歓声の音量がいつもの倍に感じた。
 ザスパの背番号12(サポーター=12番目の選手)のレプリカ・ユニホーム姿が目についた。ホームの栃木SCファンとアウェーのザスパ草津ファンの比率はどのくらいだったろうか。それを観察できる機会が試合中に6回もあった。得点が入った時に、ファンはどよめく。初めの3回はザスパのファンで、後の3回は栃木のファンだった。メーンスタンドを見る限り、その数はだいたい半々だった。
 入場者数と試合内容は必ずしも関連性はないけれど、この日の栃木SCイレブンは、目の色がいつもと違っていた。ピッチの中もベンチも普段以上のモチベーションで試合に臨んでいるように見えた。ザスパとの力の差を、その強い気持ちで縮めることができたと思う。Jを目指すザスパにとってはいつもの観客かもしれないが、栃木にとっては大舞台だった。
 フィジカル面ではザスパの方が上だった。前半に先制されて、後半にどう反撃するのだろうと心配になった。後半開始早々、さらに2点を奪われた時には、栃木の多くのファンが「もうダメだ」と思っただろう。しかし、栃木イレブンは間違いなく、反撃できることを信じていた。それは戦いの原点だ(当コラム第10回参照)。ピッチの選手たちは、逆境の中でもなお逆転を信じて戦っているように見えた。後半、4失点目になりそうな決定的シュートを防いだGK原やDF横山のプレーは大きかった。ボランチの堀田と種倉は必死の形相で何度も前線に仕掛けていった。松本は「絶対に得点に絡む」という意欲がみなぎっていたし、佐野、高秀、若林は攻撃の波を繰り返して、3人とも結果を出した。佐野には逆転ゴールになりそうな場面さえあったのだ。
 2004年6月6日、雨模様の足利市総合運動公園陸上競技場。あの日、あの場所にいた多くの栃木SCのファンに、あの選手たちのプレーを語り継いでいってほしいと思った。困難に立ち向かい、可能性に賭けて奮闘し、最後にはしびれるような感動をくれた、黄色いユニホームの選手たちのことを、子供たちに伝えていってほしいと思った。
 感動をくれた選手たちに拍手が鳴りやまなかった


 ☆ 篠崎豊プロフィール
1956年、宇都宮市生まれ。記者歴27年。Jリーグ、JFLなどサッカー取材多数。読売クラブ時代からのヴェルディ・ファン。2004、05年に栃木SC写真展を開催。栃木よみうり前編集長。
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